私にとってのカーテンコール
高校演劇で音響を務めていたこともあり、どの舞台を観に行ってもカーテンコールの入り捌けのタイミングでは無意識にミキサーを調節する指が動く。
舞台作品におけるカーテンコールは、キャストが観客への感謝や作品への思いを述べると共に、観客が作品や芝居並びにキャストを拍手で讃えるという大切な空間であるといえる。
私にとって、役を演じきった直後のキャストの思いを聞けるカーテンコールは本編と同じくらい熱く、価値がある。
すなわち、ひとりのキャストにつき、お芝居とカーテンコールが50%ずつ私の中で印象に残るというイメージである。
そんなカーテンコールにおいて、私が何よりも嫌うのは「チケットの捌け具合」を逐一知らせる風潮である。チケットが余っていることをお知らせとして単純に示すならまだしも、自虐ネタのように扱ったり、観客の笑いを取るキャストにはかなりの不快感を覚えてしまう。
カンパニーや演出家から言及を任されている場合、そのキャストには申し訳ないが、どれだけ素敵な舞台を観ても、どんなに好きなキャストでも、これをされると私は必ず萎えてしまう。
「まだまだチケットに余りがある」ということの責任がまるで観客にあるかのような、同情を誘うような、そんな印象を受けるカーテンコールは正直見たくない。
よく「全通するより友達10人連れてきて」といったニュアンスの言葉を聞くが、なによりもその動機を与えられるかはまず、企画制作や作品、キャストの力量に掛かっているのではないだろうか。そもそも、集客はカンパニー含め企画制作宣伝の仕事であり、観客が頼まれるものではないと私は思う。但し、ファンの応援スタンスによっては、その言葉を聞いて「埋めたい」「埋めなきゃ」と刺激される場合もあると感じる。
「今後も作品を続けたい」「次回作を観たい」というキャストと観客の思いが一致する前に「チケットを買ってほしい」アピールが先行してしまうことは極めて残念だといえる。
唯一両サイドの思いが五感を通して交じり合うカーテンコールという空間を、私なりに蟠りなく楽しみたいなと思う次第である。
そんな中、久しぶりにとても素敵な、私的ベスト・オブ・カーテンコールに遭遇したのでシェアしたい。
龍よ、狼と踊れ 3/28 ソワレ
沖田総司役、大平峻也くんのカテコ挨拶。何度も泣きそうになりながら、
「新撰組の結末はどうしてこんなに悲しく苦しいのか。」
「"もっと楽な道があるじゃないか"って、僕は人間だから考えちゃう」
「こんなに苦しまなくてもよかったんじゃ」
と、話してくれた。沖田くんとして生きる中で自問自答して葛藤していたのだなと感じました。役と作品に真摯に向き合ってる様子がお芝居はもちろん、言葉から態度から口調から全てから滲み出ていて。それをきちんとお客さんやキャストひとりひとりの目を見て伝えようとする姿勢に、とってもとっても感動しました。今日DVD入ってたから、きちんとこのカテコが残るのが嬉しい。
峻也くん「この季節、新学期だったりお仕事だったりできっと準備したいなぁとかゆっくりしたいなぁとか、皆さんが忙しいだろう時期にこうやって劇場に足を運んで下さることに感謝しています。(意訳)」
少なくとも私は来たいから来てるのにって思いながら、峻也くんは観客をしっかり尊敬してくれているんだなと即座に思った。お客さんが来るのが当たり前じゃないって、理解してるんだなとも思った。このカテコでは峻也くんから目を離せなかった。
チケット争奪戦になる舞台にも出演する峻也くんからしたら、きっと会場の埋まり具合に特別何かを思うことがあったりするのかなとか考えた。でも私は「僕達頑張ってますいい作品ですチケット余ってます買ってください」みたいにストレートに振り切って言うことで笑いをとるよりも、峻也くんみたいにまずお客さんをしっかり尊敬する人の感謝の言葉がいちばん心にずしっと響くなと思った。誰にもできる技じゃない。本当に感謝してる人の口からしか出ない言葉だと思った。思わず終演後に峻也くんのブロマイド購入した。やっぱり痒いところに手が届くではないけれど、そういう''心''のある人の言葉には安心感があってあたたかさがあって、芯がありました。
おわりに
以上は少なくとも、私のカーテンコールに対する姿勢です。人によってもちろん価値観は違うし、解釈も異なるので異論はもちろん受け付けます。
私は峻也くんのお芝居を沢山見てきた訳でも、なんでもないので、その日に受けた素敵な印象をそのまま直後にメモしました。終演後、気持ちよく会場を後に出来たのは、峻也くんの素敵なカーテンコールのおかげかなと思いました。
最後まで読んでいただきありがとうございました。